
ゲゲゲの鬼太郎でおなじみの水木しげるさん。
水木しげるさんの奥様をモデルにした朝ドラ「ゲゲゲの女房」も放送されたので若い頃、
こんな感じだったのかなというのは想像がつきますが、
実際の水木しげるさんの若い頃の画像を見てみたいという人も多いでしょう。
今回は水木しげるさんのプロフィールと若い頃の画像、子供についてや過去の名言についても見てみましょう。
水木しげるのプロフィール
- 誕生日:1922年3月8日
- 職業:漫画家
- 出身: 大阪府大阪市住吉区→鳥取県境港市入船町
- 本名:武良 茂(むら しげる)
- 配偶者:武良 布枝(むら ぬのえ)
- 子供:長女、次女
水木しげるさんは鳥取県境港市出身のイメージが強いですが生まれたのは大阪府大阪市住吉区でした。
その後鳥取県境港市に移り住んでいます。
子供の頃家に来ていたお手伝いさんがしてくれた妖怪の話に興味を持ちます。
高等小学校(今でいう中学校)卒業後は再び大阪に行き、画家を目指していました。
ですが徴兵年齢になり、戦地ニューギニアに赴きます。ここで左腕を失ってしまいました。
日本に戻ってからは、画家を諦め生活のために紙芝居作家になります。
上京し、東京都三鷹市に住んでいました。1951年の紙芝居作家時代から「水木しげる」というペンネームを使っていました。
水木というのは当時経営していたアパート「水木荘」から取っています。
1958年に当時流行っていた貸本屋に提供する漫画を描く「貸本漫画家」になります。
デビュー作は「ロケットマン」。
水木しげるさんは貸本漫画家として数々の作品を執筆していましたがその中に「墓場鬼太郎」シリーズがありました。
ゲゲゲの鬼太郎の原型ともなる作品ですね。
そして1964年に「ガロ」という雑誌で商業誌デビューをします。
1965年には別冊少年マガジンに掲載された「テレビくん」が講談社児童まんが賞を受賞。
その後「ゲゲゲの鬼太郎」「河童の三平」といったヒット作を連載します。
特に妖怪を題材にした漫画家として有名ですよね。
「ゲゲゲの鬼太郎」は6度のアニメ化、実写映画化、「悪魔くん」はテレビドラマ化されました。
人気漫画家になった水木しげるさんをたたえて、境港市には水木しげるロードや水木しげる会館ができました。
すごいですよね。
漫画家として数々の賞を受賞した水木しげるさんですが、
妖怪研究家としても有名で世界妖怪協会会長などを務めていました。
生涯現役の漫画家として活躍し、2015年、93歳の時に多臓器不全で亡くなりました。
水木しげるの若い頃の画像
水木しげるさんの若い頃の画像を見るとシュッとしていますね。
年齢を重ねてからとはまた違うイメージです。
子供は何人?
プライベートでは1961年に武良布枝さんと結婚。
子供についてですが、二人の間には長女と次女が生まれています。
長女尚子さんは水木プロの社長です。
次女の悦子さんも水木プロに勤務しながら、「お父ちゃんと私-父・水木しげるとのゲゲゲな日常」
「ゲゲゲの娘」などの本を出版されています。
奥様の布枝さんは「ゲゲゲの女房」「ゲゲゲの食卓」という本を出版。
「ゲゲゲの女房」は連続テレビ小説でドラマ化されているのでご存じの方も多いでしょうね。
水木しげるの名言
水木しげるさんは生前数々の名言も残しています。一部見てみましょう。
人生をいじくり回してはいけない。あわてずにゆっくりやれ
金なんか飢え死にしない程度にあったらええ
やりがいや充実感は、結局は自分が好きなことの中にしか見つからない
寝る時間を犠牲にしていた連中は、早々とあの世に行ってしまった
好きなだけ眠らずして何が人間か!何が幸福か!仕事を減らしました
引用:https://meigen.keiziban-jp.com/shigeru_m
どれも水木しげるさんの人柄が分かるような言葉ですね。
水木しげるさんは生涯現役漫画家で仕事が好きなイメージがありますが、休む時はしっかり休んでいたんですね。
やりたいことを無理せずやるということが長生きの秘訣だったのではないでしょうか。
まとめ
水木しげるさんのプロフィールと若い頃の画像を見てきました。
若い頃は紙芝居作家、そして貸本漫画家として活動されていた水木しげるさん。
商業誌でデビューするとたちまちヒット作を連発し、数々の賞も受賞されています。
プライベートでは布枝さんとお見合いで結婚し、2人の子供(娘)がいます。
2人も水木プロで活躍されていますよ。
水木しげるさんの名言を見ると水木しげるさんの生きざまがよくわかりますね。