
お笑い界のトップとして今現在みない日はないのではないかと思うくらいの活躍ぶりで、大忙しの日々を送っている明石家さんまさん。
いつも明るく笑いをとったり、司会者の時は誰にでも平等に質問を振ったりと非常に暖かい性格の持ち主ですよね。
若い頃の明石家さんまさんはいったいどういう人生をおくってきたのでしょうか?
また同期芸人に島田紳助さんがいたという噂も!
気になる容姿は??イケメンだったの?
今回はそんな真相にも触れながら画像をまとめていきたいと思います。
もくじ
明石家さんまつらすぎる過去とは!お笑いを目指したきっかけは?
- 本名:杉本高文
- 生年月日:1955年7月1日
- 出身地:奈良県奈良市
お兄さんと二人兄弟の明石家さんまさん、3歳とまだ幼い時期に母親を病気で亡くしました。
そして小学生の高学年になった時期に父親が再婚しました、この継母となる人には幼い男の子の連れ子がおり
当時弟であったさんまさんは「年の離れた弟ができたぞ!」と大喜びだったんです。
しかし、継母との関係は良好ではありませんでした、さんまさんに遠慮という意識があったんです。
そして継母も自分の子どもばりかわいがり、新しい親子の溝はなかなか埋まらなかったんです。
明石家さんまさんはお母さんを笑わせるために必死で面白いことをかんがえていました。
ただある日の夜にお酒を飲んでいた継母は「うちの子はこの子(連れ子)だけや。」というつぶやきを壁つたいにきいてしまったんです。
当時まだ子ども、一生懸命母親と絆を深めようと思っていただろうに辛かったと思いますよ。
この事が原因で明石家さんまさんはお酒が嫌いになり、お酒を飲む女性までもが苦手になったんです。
ただそんな継母を必死で笑わせていたことで、明石家さんまさんは芸能界に進もうと決めました。
若い頃の画像で確認!元々落語家?お笑い芸人になったきっかけ
高校3年生の時に2代目の笑福亭松之さんに弟子入りし、高校卒業と同時に正式に弟子入り修行を開始しました。
当初の芸名は「笑福亭さんま」(さんまというのは実家が水産加工業をしていた由来があるんですよ!)、明石家さんまさんは
半年もしないうちに初舞台を踏みました。
そこから落語家として舞台を中心に活動をしていくのですが、当時のマネージャーは普段は口数が少なく
人見知りをする性格の明石家さんまさん、人と関わると別人のように変わり輝いていた姿に注目し、
彼は落語ではなくタレントの才能がある!と発見し松之助さんに落語を辞めさせて漫談師や司会者として育てたいとお願いしました。
こうしたことにより、明石家さんまさんはお笑い芸人として見事変貌を遂げたのでした。
20歳のころの話です、テレビデビューが決まった明石家さんまさんに松之助さんは
「目立たないとあかん!赤いスーツでいきなさい!」とアドバイスしました。
当時、まだテレビでは無名であった明石家さんまさん。
司会者は、赤いスーツを着てきた若者に苦い表情を浮かべましたがそのアドバイスが松之助さんからだと分かると
「しょうがないな。」と納得したそうですよ。
テレビデビューを果たし、明石家さんまさんは漫談師としてどんどん人気になっていきます。
ちなみにこのテレビデビューを機に「明石家さんま」という芸名に変わりましたが、明石家というのはこの師匠である
松之助さんの本名の苗字からとったんです。
自分が尊敬している師匠からいただけるなんてありがたい話ですよね。
明石家さんまが人気芸人となるきっかけ!若い頃の画像と共に紹介
大阪のローカル番組を中心に出演してきた明石家さんまさん、若い頃の画像を見ていただいても分かるようにイケメンの容姿、
そして面白いトーク力でアイドル的な芸人として活躍していきました。
ちなみに当時の人気ぶりはすごすぎ、西の郷ひろみと言われるほどで女性ファンを中心に、出待ちされる事もあるほどでした。
そんなイケメンなさんまさんですが全国区で知名度をあげたさらなるテレビ番組があります。
それが「俺たちひょうきん族」そしてお昼にお茶の間を賑わせていた「笑っていいとも」です。
「俺たちひょうきん族」ではお笑い界のビックスターのビードたけしさんと共演し、絶妙なやりとりで大人気になりました。
当時の画像を載せていますが表情が豊かで面白すぎます。
また「笑っていいとも!の司会者といえば・・タモリさんですよね!
そこでもタモリさんとさんまさんとのやりとりが非常に面白くさんまさんの知名度はぐんぐん上がっていったんです。
画像を見てわかると思いますが本当に楽しそうにタモリさんと笑いあっていますよね!
それを機に次々と人気番組に出演し、冠番組ももつようになるほどの人気お笑い芸人になりましたが突然悲劇は起こりました。
なんと継母の連れ子で可愛がっていた弟が火事に巻き込まれ亡くなってしまったのです。
当時19歳という若さでした、最愛の弟を亡くしたショックから立ち直れなくなり番組でも笑いを取れなくなってしまい
芸人自体を辞めようとしたこともありました。
それをみかねた同期芸人であるオール巨人さんが共演した舞台の上で触れられたくない弟の死をネタにしてきました。
普通なら大激怒してしまうくらいですよね、ただ明石家さんまさんはそのネタは自分を励ましてくれるためだと気づき、
面白おかしくつっこみました。
このやり取りがきっかけで弟の死を乗り越えることができだし、芸人として生きていこうと決意しました。
明石家さんまさん本当に当時辛かったと思いますが、芸人として生きていく道をえらばれたのですね。
若い頃の画像でみる、明石家さんまさんの同期は誰?
先ほどオール巨人さんが同期芸人と記載しましたがここでは他にどんな人が明石家さんまさんの同期芸人なのか調べてみますね!
明石家さんまさんがテレビデビューしたのは1974年です。
同年にデビューしたお笑い芸人は「オール巨人さん」「島田紳助さん」「関根勤さん」「宮川花子さん」「桂三枝さん」です!
すごいですよね、今でも活躍中のビックな方ばかりではないですか!
当時既にお笑い芸人として、活躍していたビードたけしさんなどがいくる激戦区の中、明石家さんまさんも見事
人気芸人の仲間入りを果たしたんですね。
ちなみにこの島田紳助さん、若手の時から苦楽を共にしていた同期芸人を越えた親友であり、戦友であると感じていたんです。
島田紳助さんもとある番組で「芸能界で親友はいますか?」という質問に対し、「やっぱりおれはさんまかなー。」と
語っていたんです。
この二人親友として相思相愛だったんですね、このエピソード素敵すぎます。
2011年、島田紳助さんは残念ながら暴力団と交際していたことで芸能界を引退してしまったことはまだ
記憶に新しい方も多いのではないでしょうか。
当時、明石家さんまさんも「戻ってこい!」と必死に説得などしていました、戻ってきたら一緒に番組をするという夢も・・・
2年くらい説得しながら待っていたそうですよ。
ただ残念ながら島田紳助さんが戻ってくる事はありませんでしたね。
さんまさんは島田紳助さんに向けて「同期でいてくれて、認め合い、けなしあいした事が非常に幸せでした。」と語っていました。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
今回は明石家さんまさんだけでなく同期芸人、また島田紳助さんについてお話していきました。
芸人としていつも明るく笑い飛ばす笑顔の裏には本当に様々な苦労や悲しみがあったんですね。
その苦悩を乗り越え今やお笑い芸人として大活躍している明石家さんまさん。
若い頃からお笑いはもちろん、バラエティー番組の司会やドラマに出演など本当にひっぱりダコですよね。
画像で確認してみても本当に若い頃イケメンだったんですね!
今回は明石家さんまさんの若い頃の活躍を中心にまとめましたがまだまだこれからも明石家さんまさんの活躍から目が離せませんね!
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