
吉本の大御所でありながら「アホの坂田」と呼ばれ、誰からも愛されるキャラの坂田利夫さん。
芸歴は50年以上になりますがなぜ「アホの坂田」と呼ばれるようになったのでしょうか?
アホの坂田の若い頃の画像と共に振り返って見ましょう。
アホの坂田が吉本新喜劇に入るまでの経歴と画像
- 芸名:坂田利夫
- 生年月日:1941年10月7日
- 職業:タレント、元衆議院議員
- 出身:大阪府大阪市
- ニックネーム:アホの坂田
- 本名:地神 利夫(じがみ)
- 所属事務所:よしもとクリエイティブ・エージェンシー
- 配偶者:なし
- 子ども:なし
アホの坂田こと坂田利夫さんは、大阪府大阪市港区出身。本名は地神(じがみ)利夫といいます。
芸人さんで芸名と本名が違うのは珍しいですね。
地神ワイヤーロープ製造業という家内工業を営む家に生まれます。
ちなみに、1950年にジェーン台風の被害にあったため、幼少期の画像はほとんど残っていないそうです。
高校卒業後は職を転々としていたのですが、周囲から「あんた面白いから吉本に入ればいいのに」とすすめられ吉本新喜劇の研究生になりました。
当時の吉本新喜劇には西川きよしやさんやのちにきよしさんの嫁となるヘレン杉本(西川ヘレン)さんが在籍していました。
アホの坂田さんや西川きよしさんはまだまだ下積み時代でしたが、ヘレン杉本さんは当時吉本新喜劇の看板女優だったんですよ。
吉本新喜劇だけでは食べていかれなかったアホの坂田さんと西川きよしさんはヘレン杉本さんに養ってもらっていたというので驚きですね。
若い頃に漫才コンビ「コメディNo.1」を結成
1970年代に入り、西川きよしさんは横山やすしさんに誘われ、若い頃に漫才コンビ「やすきよ」を結成しました。
そしてアホの坂田さんも前田五郎さんとコンビを組み、コメディNO.1という漫才コンビを結成します。
漫才ブームの先駆けとして、コメディNO.1はやすきよと共に人気漫才コンビとして活躍していきます。
「アホの坂田」と呼ばれるようになったのはいつから?
今ではすっかりアホキャラとなっている坂田利夫さんですが、初めはアホを強調するような芸風ではありませんでした。
漫才ではボケを担当していた坂田さん。
漫才の中で「お前はアホか!」というツッコミにたいし「そうや!アホや!」と返したことが受け、「アホの坂田」と呼ばれるようになったのです。
その後アホを強調する芸風に変わり「アホの坂田」がどんどん定着していったという訳なのです。
1972年には「アホの坂田」というレコードも出してヒットしているんですよ。
「アホの坂田」が定着していきますが、坂田さんのお母さんは息子がアホと呼ばれることに抵抗があったそうです。
それを知った坂田さんはアホの坂田を辞めようかとも考えたのですが、アホ芸を貫くことに決めたそうです。
ちなみに坂田さんは独身ですが、それは結婚して嫁や子どもができたときに「アホの嫁」「アホの子ども」と呼ばれるのが心配だからと話しているようです。
人生をかけてまで「アホの坂田」を貫いているんですね。
アホの坂田の持ちギャグは?
アホの坂田さんはその芸風から持ちギャグもたくさんあります。
- 「あ、よいとせのこらせのよいとせのこらせ」
- 「あ~りが~とさ~ん」
- 「あんたバカね、オホホ~」
- 「サンキュー、便所マッチ」
- 「いえす、あいどぅー」
などが有名なギャグです。
主に関西で活躍しているアホの坂田さんですが、関東の人でも知っているギャグが多いのではないでしょうか。
まとめ
アホの坂田さんの若い頃を画像と共に振り返ってきました。
アホの坂田こと坂田利夫さんは、高校卒業後はじめは職を転々としていました。
その後、吉本新喜劇の研究生として若い頃活動。
若い頃はそれだけでは食べて行けず、西川きよしさんと共にヘレン杉本さんに養ってもらってました!
その後、コメディNO.1という漫才コンビを結成し漫才ブームの先駆けともいえる人気コンビニまで成長しました。
その頃「お前はアホか」というツッコミに対し「そうや!アホや!」と返したところ観客に受け、「アホの坂田」と呼ばれるようになりました。
それからアホを強調する芸風に変わっていったそうです。
アホの坂田さんは本当にアホなのではなく、ポリシーを持ってアホキャラを演じているんです。